「どうしたらあのラーメンを」
20代前半の頃、河村浩介は自動車ディーラーの営業マンとして働いていた。
ありがたいことに先輩や顧客にはかわいがってもらうことも多かった。だから居心地は悪くなかったが、とはいえ毎月の販売ノルマは重くのしかかった。夜遅くまで数字とにらめっこするような、そんな日々に少しずつ疑問を持ち始めてもいた。
気分転換になっていたのは日々の食事だった。酒は飲まないが、昔から食べることは大好きで、その日は後輩の勧めで弘明寺のラーメン店「マンザイ」に足を運んだ。
地元でも「うまい」と評判ではあったが、実際にスープを口にした時の衝撃は想像以上だった。
「なんだ、これは…」
それは生まれて初めての「豚骨スープ」との出会いだった。関東圏には当時、豚骨ラーメンの店はまだまだ少なかったということもあり、大袈裟に言うならば「ラーメン」そのものの常識を覆された体験だった。
その日以来、その味を気に入って同店に足しげく通うようになった。
一方で当時は長男が生まれたばかりでもあり、「お小遣い」が潤沢だったわけでもない。外食ばかりを続けるわけにもいかず、ぐるぐると考えた。
「どうしたらあのラーメンを食べられるだろう。…どうにか無料で食べられないものかなぁ」
その初期衝動がまわりまわって、自らラーメン店を開業するに至ったのだった。まさかそんな生い立ちの店が20年以上も続くなどとは、当時は誰一人として想像できなかったに違いない。
昔から性格的に、その気になってしまえば行動に迷いはなかった。
現在まで共に店を切り盛りしてくれている妻・清子にさえ、事前には何の相談もしていなかったという。なんとおそろしい。話を聞いた清子は怒るよりも先に驚きと不安で、人知れず涙を流したのだった。そんなエピソードがあったことも、ここに記しておかねばなるまい。
さて、そうとも知らず浩介は、スパッとディーラーを退職。すぐさま、某ラーメン店に貼ってあった「店長候補募集」のポスターを見つけて門を叩いた。
(3ヶ月で店長になれます?なんだ、楽勝だな)
実際に出店するには数百万円の資金が必要だと聞かされてもなお、
「…ふーん。まぁ、それなら銀行に借りればいい。貸してくれるだろう」
とタカをくくっていた。
そんな若さゆえの勢いをふっと緩めてくれたのは、親をはじめとする周りの大人たちだった。
「多少回り道でも、何年間か修行をする方がいい。そんなに簡単じゃない」
そんなことを言われれば、若者というのは反発さえしそうだが、この男はそうならない。素直にその声を聞き入れ、方針を転換したのだった。
4年半の下積み
修行先として選んだのは、学生時代から馴染みのあった「くるまやラーメン」の笹下店(当時)。市営地下鉄・港南中央駅すぐそばの商業施設「gooday place」が今ある場所にはその当時神奈中バスの車庫があり、同店はそこに隣接する繁盛店だった。
想像以上にひっきりなしに客が訪れる店だったため、働き始めてすぐに、
「なんで俺はこんな辛い思いをしているんだ…」
と早々に音を上げ、慣れない立ちっぱなしの営業が身体に堪えた。
だが、大見得を切って前職を辞めた手前がある。
「投げ出したら、友達いなくなっちゃうだろうな…」
苦しい時期を乗り越えさせたのは、そんな思いだったという。
ようやくラーメン店の仕事にも慣れてきた頃、
「給料のことを考えても、早く店長にならないと」。
あくまで独立した店をもつためなのだから、いわば当然の願いだ。だが店長のポストが空くのには当初の想定より時間がかかり、浩介が店長となったのは3年目の時だった。
そこからまた1年半ほどが経った頃、そろそろ動き始めるかと不動産屋の知人に声をかけた。
「将来的に自分の店を構えたいんだ。良い物件があったら教えてくれ」
開業資金もまだ十分でないこともあり、すぐにというつもりではまだなかった。
それが、平成8(1996)年6月のこと。
ここから話は急展開する。
こだわったタイミング
「港南台にあるラーメン店が閉店するそうだよ」
相談をして1ヶ月も経たないうちに、その不動産屋の知人は告げた。
浩介にとって、それは想定外の早さだったが、
「まぁでも一応、見るだけ見ておくか」と足を運んだ。
その場所こそ、現在の店がある地である。
周りの景色は今とやや異なり、現在は向かいにある吉野家などは草の生い茂る空き地だった。
(こんなところでやっていけるかな…)
多少の不安を覚えながら、試しに昼時間帯の客入りを見守ってみた。
すると、思った以上に多くの人が店に吸い込まれていく。
「これなら…なんとかなるんじゃないか」
そうとなれば、この人はやはり走り出してしまう。7月末でくるまやを辞める算段をつけて勤め上げると、なんとその1週間後には店をオープンさせてしまった。
果たして、「それで準備は間に合ったの?」と多くの人が疑問に感じるだろう。
自身も今となっては
「慌てすぎて失敗するパターンの開業。今の俺なら止めるよ」
と苦笑して振り返る。
最大の問題は、ラーメンの肝となるスープがなかなか仕上がってこなかった。
開業を目標にして自宅で研究を重ね、これまで店で作ってきたものとは全くちがう「豚骨スープ」に、どうしてもやりたかったという「背脂」(せあぶら)を加えたものを密かに完成させていたのだったが、それが店舗で再現できない。
原因は設備の違いにあった。家庭用の鍋と店舗の大きな寸胴とではあまりに勝手が違い、思う通りの「あの味」が出せなかったのだ。
迫る開店日――。
普通ならここで選ぶであろう「開店延期」という選択肢は、この男にはなかったという。
「平成8年の8月8日に開業できる。それならこれを逃したくない」
およそ商いにおいて、縁起が大事だというのは理解できる。だが、スープにも優先してこのタイミングを重視するという例は、ラーメン屋多しと言えど他に聞いたことがない。
もちろん見切り発車でオープンしたわけではないのでご安心を。
スープは当初予定していたものとはまったくの「別物」ではあったが、どうにか仕上げることができたのだった(今なお「あの味」を再現するのは難しい、というより忘れてしまってもいるそうで、それはそれで食べてみたかった気もする)。
はてさてこうして「龍ちゃん」は、港南台の地に産声をあげたのだった。
ちなみに店名は、長男の名前・龍くんからとっている。もともと「龍」が好きだったために長男の名前にもしたのだが、店名に使うことについて本人に確認すると
「うん、いいよ」
と返ってきたため、晴れて決まったのだそう。
なおその頃には長女・茜ちゃんも生まれていたが、「女の子だからラーメン屋の名前にしちゃうのはかわいそうかな」との配慮があったという。
その反対に「でも次の店は茜ちゃんにしなきゃいけないかな」という話もあったとか、なかったとか。
そのあたりはまだまだ今後の展開に注目したい。